NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」という番組を見た。多系統萎縮症という、体のあらゆる箇所に力が入らなくなり、寝たきりになってしまうという重い病気。それにかかってしまった女性が、意思が通じる内に死にたいと、安楽死が許されているスイスへ行き、安楽死をするというドキュメンタリーだ。

安楽死を実際に行う様子がカメラに映し出される。二人の姉が側に寄り添って、ごめんを繰り返す。本人はありがとうを繰り返す。その映像は衝撃であり、深い悲しみがあった。

詳細は、各々の好奇心と検索に任せるとして、僕が考えたのは、「死」と「言葉」についてだった。

「死」についていえば、自分は異常と言っていいくらいの「それでも人は生きなくてはならない」信者であり、今回の公演「生まれたくて生まれたわけじゃない」にもそれは一つのテーマとして存在する。しかし、この番組を見て、本人が心から死を望んでいるのに、それを否定することは出来るのだろうか。と思った。まして、この方は、生きるとは、死ぬとは、を必死に考えての決断であったから、そんなことを考えることなく、例えば日々何となくでしか生きていない人間がいたとして、その人たちよりも、生きること、ないしは死ぬことに積極的な姿勢を持っている。それなのに否定できるだろうか。と思った。番組の中での彼女の言葉。「死に方を考えることは、生き方を考えることと同じくらい大事なこと。」確かにそうかもしれないと思ったのだった。

しかし、私は未だに「それでも生きなくてはならない」信者である。恐らく、今後書いていく作品もその空気を常に帯びていることだろうと思う。

「言葉」について。このような重たい内容から、表現、演劇の話に持っていくことは、いささか不謹慎だと思わざるを得ないが(それほどまでにセンセーショナルな映像だったのだ)、これほどまでに、言葉が心に響いてくることもない。死ぬまでの僅かな時間で紡がれる言葉の数々が、真に迫っており、一言一言が重い。ドキュメンタリーは、画面に映っているその人が、その人本人であり、どれもがその人の言葉である。当たり前であるが。対して、ドラマ(この場合、ドキュメンタリーの対義語として使う)の場合、画面の人が、その人とは言えない。演技をしている以上は、必ずそうである。しかし、真に迫る言葉(のようなもの)を吐くことはある。それは役者が、この人、本当にそう感じて、本当に言っているように見える、という状態だ。そのような言葉の吐き方、台詞の言い方、そこに行き着くまでのプロセス、そんなことを考えた。考えただけで、何も答えは出ていない。

何にせよ、今回の公演を作っていく上で、たくさんのヒントをもらったような気がしたのだった。

そんなこんなで、もう六月も終わろうとしている。前半は、自分がZAN-Projectさんの客演で、こちらの稽古のことを考える余裕がなかった。必死にやっていかないと間に合わないと思っている。

そんなこんなで、自分は布団に入らずに床で寝落ちしてしまう癖がついてしまった。良くない。体を壊してしまう。こんなに忙しい日々は、人生で初めてだろう。暇だなと思うことが無くなった。しかし、僕はビールを飲む。梅雨だから、ビールを飲む。そして、作品のことを考える。眠くなる。落ちる。。。

重たい内容の稽古日誌になってしまい、というか、日誌にもなっていない内容だ。少し、稽古の中身を。

前回、第三版を書き終えたという話をしたと思う。その後、また内容が変わって、第四版ができた。いつまで自分は書き続けるのだろう。けど、これでいこうと思う。皆も納得してくれるはずだ。そして、お客さんも。そう信じている。今は、各シーンに動きをつけていく段階。時間はないが、チーム力で乗り切るつもりである。

そして、次回は、もっと面白く、明るい内容にしたいと、こんだけ書いといて、少し後悔している自分がいる。